たりたの日記
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2003年05月17日(土) 「アンネのバラ」が開いた

HP「たりたガーデン」の表紙に今年一番に咲いた「アンネのバラ」の写真を載せた。一昨年の冬に取り寄せた苗を植え、去年初めて咲いたバラが今年もまた咲いた。散ってしまう前にその姿を残しておかなければと、雨が上がったばかりの庭に飛び出して、ともかくカメラの中に収めたのだった。芸術的に写そうなどと考える暇なく、記録することだけを考えてシャッターを切った。

そんないい加減な心根で撮った写真にもかかわらず、そのバラは写真の中で生き生きとその命を現してくれた。この写真をうっとりといつまでも眺めながら、これはきっと私の庭に咲いたバラだから特別なのだろう。他の人の目にはどこにでもあるバラなのだろうと思っていた。ところが、何人もの方たちが、メールで、あるいは掲示板でこのバラのことを誉めてくださった。

このアンネのバラがどうして私の庭にやってくることになったか、まだ日記には書いていなかったかもしれない。遡れば、2001年9月11日のあの同時多発テロの直後、平和を望む人たちが意見を交換する「小さな声」のメーリングリストに参加した。私の書いた2001.9.11の詩も載っている「小さな声」の冊子は、朝日新聞の天声人語でも取り上げられた。そしてそのメーリングリストのメンバーに「アンネのバラ友の会」のNさんがいらした。Nさんを通してアンネフランクを偲ぶこのバラの存在を知ったわけだ。 

アンネのバラはベルギーの園芸家が、アンネ・フランクの思い出のためにと、アンネの父、オットー・フランク氏に贈ったバラで、1971年京都のクリスチャンの合唱団がイスラエル演奏旅行中にフランク氏と偶然出会い、その後の交流と友情の証として翌年のクリスマスに、フランク氏から京都の嵯峨野教会に10本のバラの苗が贈られたが、その1本が翌年の春、奇跡的に花を咲かせ、これが日本でのアンネのバラの起源となった。 アンネのバラはその後、接ぎ木で増やされ、全国の教会、学校、平和施設等に送られているとのことだった。

バラのように消毒や手入れが必要となる花はあまり私の得意とするところではなかったが、その平和の使者が私の庭にやってくることを夢みて、N氏に苗の手配をお願いしたのだった。植え付けにあたっては「アンネのバラ教会」のHPで学び、分らない点は教会にメールで何度か質問した。そのつど教会の牧師が丁寧に質問に答えてくださり、多少日当たりは悪くても地植えが良いという言葉に励まされ、初めてバラを地植えに挑戦したのだった。

去年の5月、待望のバラが咲いた時には本当に嬉しかった。そして2年目、バラはすっかり根を張り、株もいくらか大きくなった。全く消毒を施さなくても成長したと喜んでいたが、今年は一つ目の花が開いたところで蕾が2つ一夜のうちに虫から食べられていた。残る蕾を守るために消毒のスプレーをかけながら、花としてもこんな殺虫剤を振りかけられるのは不本意だろうが、咲かないうちに食べられてしまうよりはいいでしょと話しかける。でも花としてはどちらがいいのかは分らない。

この4月、15年振りに佐賀の伯母の家を訪ねた。そこには94歳になる伯母といっしょに住んでいる身体の弱い従姉がいるのだが、彼女が珍しいものを見せてあげるといって見せてくれた鉢植えのバラが「アンネのバラ」だった。遠く離れていて、しかも15年も会っていなくて、二人が同じ花を育てているということが何か感慨深かった。帰り際、その従姉はしばらく前に出版したという「おりがみ」という詩集を私にくれた。これまでも何冊か彼女の詩集を手にしてきたが、その度に彼女の持つ言葉の深さと繊細さに共感を覚えてきた。新しい詩集をめくるとそこには花のこと、自然のことが多く綴られていた。わたしのテーマとも言える「命の源」という言葉が彼女の詩の中にもあった。同じ喜びと悲しみがそこに流れているような不思議な近さ。
従姉の家の植木鉢の「アンネのバラ」もきっと今頃、開いていることだろう。そして彼女は日がな一日そのバラを眺めながら言葉を紡いでいることだろう。





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